SW 259 – 脳とコンピューターの接続:BCIの治験加速
- ryee62
- 3 日前
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更新日:28 分前
今回のSeattle Watchでは、BCI(ブレイン・コンピュータ・インターフェース)に焦点をあてています。米Neuralinkが基礎研究で存在感を示す一方、中国のNeuracleは侵襲型BCIとして世界初となる商用承認を取得し、実装・量産のスピードで先行しています。こうした米中の進展は、日本の医療機器・ヘルスケア企業の研究投資や事業戦略にも大きな示唆を与えるはずです。
脳に電極を埋め込み、コンピュータと直接つなぐ「ブレイン・コンピュータ・インターフェース(BCI)」は、長らく大学の研究室で少数の被験者を対象に行われる実験にとどまり、一般のビジネスパーソンにとっては「実用化はまだ遠い未来の話」という印象が強い技術でした。実際、脳に電極を埋め込んだことのある人数は、2020年代前半まで世界でも数十人規模にすぎません。
ところがこの数字はここ1〜2年で急激に増加し、ある研究者の推測では2026年時点で約150人に到達しています。世界のBCI市場規模も2025〜26年時点で29億〜40億ドルとされ、2035年には109億〜150億ドルへ、年平均15%前後で拡大すると予測されています。なぜ今、臨床実験の段階から実用フェーズへの移行がこれほど急速に起きているのか、Neuralink、Neuracle、BrainGate、Synchronという4つの事例から、その構造を読み解いていきます。
Neuralink ― 拡大し続ける治験ネットワークとFDAの後押し
イーロン・マスク氏率いるNeuralinkは、2024年1月に最初の患者Noland Arbaugh氏への埋込を実施して以来、治験の組み入れペースを加速させています。MIT Technology Reviewは2026年6月時点で26人への埋込を報じています。対象は脊髄損傷やALS(筋萎縮性側索硬化症)による四肢麻痺患者に加え、重度の発話障害を持つ患者にも広がっています。
https://www.basenor.com/blogs/news/neuralink-reaches-26th-patient-in-ongoing-brain-computer-interface-trials https://www.technologyreview.com/2026/06/19/1139270/brain-computer-interface-trials-are-taking-off/
患者たちはすでにカーソル操作やウェブ閲覧、SNSへの投稿を思考だけで行えることを実証しており、ロボットアームの操作機能も開発が進められています。FDA(米食品医薬品局)はNeuralinkの発話回復技術と、同社が視覚回復を目指す「Blindsight」プロジェクトの両方に「ブレークスルーデバイス指定」を付与しており、審査プロセスの迅速化という制度面の後押しも治験拡大を支えています。展開は米国内にとどまらず、UAE・英国・カナダでも治験が始まっており、英国のNeuralinkが実施する「GB PRIME」試験には2026年5月時点で7人の患者が参加しています。
*「ブレークスルーデバイス指定」(Breakthrough Device Designation):生命を脅かす疾患や不可逆的に日常機能を損なう疾患に対して、既存の代替手段より効果的な診断・治療を提供しうる医療機器を対象に、FDAが審査を迅速化し、開発段階からFDA専門家と緊密に協議できるようにする制度。
こうした拡大を支えているのが資金力です。Neuralinkは2026年4月にシリーズEで6億5,000万ドルを調達し、企業価値は96億ドルに達しました。これはNeuralink一社の現象ではありません。BCI業界全体を見ても、2024年には23億ドルのVC投資が流入し、2025〜26年の期間にも、BCIを含むニューロテクノロジー企業全体で、機関投資家からだけで16億ドル超が投じられており、各社の平均的な投資ラウンドの規模は1億ドルを超えています。興味深いのは、BCI市場全体の成長の約52%がウェアラブル技術やAIベースのシステム(脳信号を動作や言葉などの意味ある情報に変換するデコード技術など)によって牽引されている点です。これは、成長の原動力となるのが「ハードウェア(測定機器)」だけでなく「知能(AI/ソフトウェア)」であるという、業界全体の認識を反映しています。
Neuracle「NEO」(中国)― 世界初の商用承認が塗り替えた米中の力学
一方で、BCIの実用化において先陣を切っているのは中国です。上海のスタートアップNeuracle Technologyが清華大学の研究チームと共同開発した侵襲型BCI「NEO」は、2026年3月に中国国家薬品監督管理局(NMPA)から治験の枠を超えた商用利用の承認を取得。これは侵襲型BCIとして世界で初めて、臨床試験の外で商用に使えると認められた事例です。承認からわずか数日後には、中国の公的医療保険の適用対象にも組み込まれました。
NEOは電極8個を脳の表面を覆う硬膜の上に設置する方式を採用しており、皮質そのものに深く刺入するNeuralinkのN1チップに比べて低侵襲な設計です。研究者Avinash Singh氏は、数年を要することが多い米FDAの審査プロセスと比較して、中国の承認スピードの速さを指摘しています。実際にこの技術で救われた患者もいます。2020年の事故で頸髄を損傷し四肢麻痺となったDong Hui氏は、2024年11月にNEOを埋込。1日2.5時間、11ヶ月にわたるソフトロボットグローブを使ったリハビリを経て、指の運動機能を回復し、自分の名前と日付を手書きできるようになりました。本人は「もう一度字が書けるなんて信じられなかった。興奮しすぎて名前の一画を書き忘れたほどです」と振り返っています。
この一件は、数十年にわたり基礎研究で米国が主導してきたBCI分野において「商用化の一線を最初に超えたのは中国だった」という受け止め方を業界に広げました。ある分析記事は、米国が「2年半分のリードを失った」とまで表現しています。背景には、非侵襲(精度が不足しがち)と完全侵襲(安全性リスクが高い)の中間を狙う中国側の半侵襲的な設計思想があるとされます。ある投資家は「米国は基礎研究という0→1の段階を、中国は実装・量産という1→100の段階を、それぞれ主導している」と役割分担を表現しています。
中国国内では2023年10月以降、36件の臨床試験が実施され、そのうち32件が2025年の1年間に集中しています。この試験件数の急増ペースを踏まえ、米医療専門メディアSTAT Newsも2026年の展望記事で「中国発スタートアップの爆発的増加」をBCI業界の3大トレンドの一つに挙げました。同記事はほかに「脳信号を捉える技術そのものの改良」と「ALS・麻痺にとどまらないメンタルヘルス領域への応用拡大」を挙げており、用途的にもBCIの裾野が広がりつつあることを示しています。 https://www.technologyreview.com/2026/06/01/1138133/china-world-first-brain-chip/
BrainGate/Casey Harrell氏 ― 「日常で使える」水準に達した発話回復
BCIが「研究段階」から「実用段階」に移ったことを最も具体的に示す事例が、2004年から続く学術コンソーシアムBrainGateの治験に参加する環境活動家Casey Harrell氏のケースです。ALSにより発話能力を失った同氏は、運動野に4枚(電極数にして計256個)のマイクロ電極アレイを埋め込み、週70時間デバイスを使用する「パワーユーザー」となっています。誤変換率は3%未満まで低下し、これは健常な話者とほぼ同水準です。研究者のChristian Herff氏は「ほぼ完璧と言っていい」と評しています。
従来のシステムでは4語に1語が誤変換されており、研究者Nicholas Card氏は「4語に1語を間違えれば、文章はすぐに理解不能になる」と指摘していました。Harrell氏のシステムは語彙数12万5000語(大学卒業者の平均語彙数の2倍以上)を備えており、合成音声は発病前の本人の声を再現するようカスタマイズされています。研究チームは今後、抑揚(声の高さやリズムなど話し方に感情やニュアンスを加える要素)や歌唱機能の追加も計画しています。
Synchron × NVIDIA ― 低侵襲アプローチと生成AI基盤モデルの融合
NeuralinkやNeuracleが頭蓋骨を開いて電極を脳内・脳表に設置するのに対し、Synchronは開頭手術を伴わない全く異なるアプローチを取っています。同社の「Stentrode」は、頸静脈からカテーテルを挿入し、脳の運動野周辺にある血管内から神経信号を検出してワイヤレスで送信する仕組みです。米国とオーストラリアでの治験では10人の麻痺患者に埋込が行われ、12ヶ月間の臨床データが公表されています。2025年11月にはシリーズDで2億ドルを調達し、累計調達額は3億4500万ドルに達しました。
Synchronの動きで特に注目すべきは、NVIDIAとの協業です。両社は神経活動データそのものから直接学習する「brain foundation model」(コードネームChiral)の共同開発を進めています。テキストや画像を学習させる従来の生成AIとは異なり、脳信号そのものを教師データとして使う「自己教師あり学習」(正解ラベルを人手で用意せず、データ自体から規則性を学ばせる手法)への転換であり、NVIDIAのHoloscanプラットフォームによるリアルタイムのオンデバイス処理も計画されて射ます。
この「brain foundation model」という発想は、大規模言語モデル(LLM)がテキストデータを大量に学習して汎用的な言語能力を獲得したのと同じ発想を、脳信号という全く異なる種類のデータに応用しようとする試みです。Synchronの創業者兼CEOであるTom Oxley氏は「神経データから直接学習する生成的事前学習の手法を用いて、人間の認知そのものを起点とする脳基盤モデル(認知AI)を構築している」と説明しており、特定の患者・特定の動作に特化した従来型のデコーダーから、汎用的に応用できるモデルへの転換を狙っていることがうかがえます。
これらの事例が示すのは、単一のブレークスルーではなく、複数の技術進化と環境整備が同時に結実したことで、「臨床実験」から「実用フェーズ」への移行が急速に進んだという構造です。半導体の進化、AIによるデコード精度の向上、低侵襲設計による安全性確保、そして規制緩和と資金集中の進展。これらが数年かけて積み重なり、2025年から2026年にかけて一気に結実したのが実態といえます。
日本企業への示唆は多岐にわたります。第一に、医療・介護や就労支援の現場において、BCIを用いたアクセシビリティ向上はすでに現実的な事業機会です。第二に、超薄型チップや低侵襲デバイスに不可欠な高精度加工・実装分野では、日本の精密加工・部材メーカーに新たな供給余地があります。さらに、SynchronとNVIDIAの連携に見られる「専門ハードウェアと基盤モデルAIの協業」は、国内企業がAI大手と組む際のアライアンス戦略の好例となります。
加えて、規制スピードの重要性も見逃せません。中国NMPAが米FDAを上回る速度で「NEO」を承認し、数日で公的保険に収載した事例は、薬事規制の設計そのものが国家の競争力に直結することを示しています。米中が基礎研究と量産実装のそれぞれで主導権を握る中、日本がどの領域で存在感を発揮するのか。研究投資や薬事設計、人材育成を含めた戦略の具体化が急務になってくるでしょう。
Webrain Production Team



